コモンセンス
今回の遠征では、自分という人間を表現するときと、他の隊員に対して自分が判断を下すときに、何度も思い出した言葉があった。それは、10年以上前に、ミネソタで約半年にわたる犬ぞりの訓練を受けているときに、犬ぞりのノウハウを教えてくれたポールから言われた言葉だ。
当時、基本的な山の経験はひととおりあったが犬ぞりの経験など全くない私は、ある日ポールにこんな質問をした。「犬ぞりをする上で、もっとも重要なことは何?」。私は、具体的な技術やノウハウについて教えてくれるだろうと期待していたから、返ってきた言葉は予想外だった。「もっとも重要なことはコモンセンス(一般常識もしくは一般常識的思考力と言った方が近いかもしれない)だよ」「例えば、紐を結んでソリを止めるとする。もしかすると、その時急に、犬たちが興奮していきなり走り始めるかもしれない。そんな可能性を想定して、紐の間に指を挟まないように気をつける。事故はそんなところで起きるものだと思う。だから、常識的に考えて、常識的に対応することがとっても重要だと僕は思うんだ」意外な答えだったけれど、それ以来、私は、山に行ったときだけではなく仕事をしているときにも、この言葉を何度も何度も思い出しては、まったくそのとおりだと思うようになった。
今回の遠征でも、何度か自分の意見を求められたり、主張する場面があった。そんなとき、自分が思うこと考えていることを、再度、自分の中で常識的なロジックで考えて破綻がないだろうか、偏りがないだろうか、とフィルターにかけてみたりした。だからといって、慎重になりすぎて自分の主張がなく、当り障りがないことだけを言うのであれば、他の国の人の心の中に入っていけないというところが難しいところだ。本当に心で考えて、かつ、常識的なロジックがあるもの。自分自身も問われ、相手にもそれを問う、そんな緊張感が色々な国から来た隊員同士の中にはあると思う。多分それは本能的なもので、コイツと登っても安全かどうかを嗅ぎ分けるためのひとつの基準みたいなものだと思うのだ。それでも、山という共通項を持っていると、国は違ってもその常識的思考のラインはかなり近いものだと感じる。そんな中でお互いをすり合わせていくこと、それが、色々な国から集まった隊の面白さのひとつでもあると思う。
家をさがす
帰国してから1週間が過ぎた。登山中の時間の密度は、いうまでもなく凝縮されて濃密で語り尽くせないと思えるほど私にとって大きな経験だったのだが、帰ってからも1週間とは思えないほどいろいろなことが起きた。
そのうちのひとつは、家を探すというもの。お金のかけ方という視点から自分自身のライフスタイルを考えると、私は今まで、同居人とともに、山に登ることとその環境を維持することに重きを置いてやってきた。それはそれで、とても満足のいくもので、年をとってもこのままずっとこういう生活でやっていくのかな、とおぼろげながら思ってきたのだが、今回の山登りで、ちょっと考え方を変えてみようかなという気持ちになった。
その考えの変化の理由のひとつは、今回出会った彼らが、山も楽しみ、生活も楽しみ、仕事も楽しむ、どれもおざなりにせず充実させようという気持ちを持ち、それを実現するためには、それなりの努力をしているのだということが分かり、そういうスタイルもいいなあ、と思ったからだ。
デンマークのクラウスは、32歳という若さながら、フリーでコンピューターの仕事をし企業のクライアントを数件かかえている。クライアントと調整して長期の遠征をこなす傍らで、自宅兼オフィスの100㎡の部屋をコペンハーゲンの一等地に所有、月々30万円のローンを支払い中なのだという。「あと6年でローンは払い終える。がんばってるだろ!」と自分でも言っていたけれど、この若さですごいなあと思ってしまった。それなりの収入があるのだろうが、ひと月30万円のローンだ…。コペンハーゲンは東京くらい不動産が高いんだよ、と言っていた。「じゃ、30万円のローン払ったら、月の収入はどのくらい残るの?」と聞いたら「なんとか生活と山登りができるくらいかなあ」と笑っていたけど、そういう決断をするというところに、ちょっとだけ人生の広がり方を見たような気がした。そう、私は東京は不動産が高いし、ばかばかしいと思っていた。最初からそれらを人生の視野に入れることなくはずしてきた、と思う。もちろん、それにも満足してきたし正しいスタイルだとは今でも思うけれど、彼らの、生活の中での「taking risks」も、ちょっといいな、と思うところがあった。
最初から視野に入れないのではなくて、より自分が満足するようなライフスタイルの全体像を描いた上で、できる範囲でそれらを実現させていく、という生き方もありだなあと思うようになった。そして、帰国後にやりたいことの第一弾が「家探し」だった。知る人ぞ知るこの家は、自分自身本当に気に入っているのだが、住み始めてから10年以上が経った。この家から、自分のスタイルが決まっているといってもいいほど、強烈なところなのだ。ただ、そのスタイルもそろそろ、変えてもいい時期かもしれない、と思いはじめている。
サーシャの写真
ロシアからメールが届いた。仲良しになった隊員のサーシャからだ。サーシャの本名はアレクサンダー。ロシアでは、アレクサンダーという名前の人を愛情を込めてサーシャと呼ぶらしい。彼は私以上に英語があまり得意ではない。それでも「わたし ロシア かえった しごと もどった」みたいな片言の英語で、一生懸命にロシアに帰ってからのことなどを毎日のように書いてきてくれる、いいヤツだ。そのうちに、「わたし えいご よくわからないから」というメッセージとともに、現地での写真を添付したメールをまとめて送ってくれた。
現地にいるときから、よく写真を撮る人だなあと思っていたけれど、添付された写真を見てちょっとびっくりした。なんというか、写真が生き生きとしている。人物写真は、そこに映っている人一人一人の特徴や雰囲気がそれぞれよく表れているし、風景写真といったら、まるで詩を読んでいるように風景の中に心が読めるようなのだ。ああ、こんな風に景色や人を眺めていたんだ、と彼の心が少しわかったような気がした。人物写真の中では、私はどれもまったく女らしくなく、中性的な感じが強烈に表れていて、ちょっと苦笑してしまった。他の隊員の姿を写真で見ても、それぞれ実に特徴が良く表れているのを考えれば、おそらく、サーシャは、私の本質的な部分を見抜いてしまっているんだろうな、と思う。
ロシア人たちは、ベースキャンプで毎日のようにお酒を飲んでいた。ベースキャンプでミネラルウォーターよりもビールの数が圧倒的に多いことに気付いたときには、私とスペイン人の友達は呆然としたが、彼らは実に実に酒が好きなのだ。
サーシャは、お酒を飲まないとちょっとシャイな感じであまり積極的に話しかけてはこない。でも、お酒が入ると、ちょっと解放された感じに、心を開いてユーモア一杯に人の懐に入り込んでくる。今のロシアの日常がどのようなものか、私はわからないけれど、なんだか、愛らしさのなかに寂しさが潜んでいるような、希望の中にあきらめがあるような、明るさと影がいつも同居しているような、そんな感じがした。
今夜はもう一度、詩のような風景写真をじっくり見てみようと思う。
社会復帰
社会復帰(お仕事)1日目。いつも不思議に思うのは、会社に行けば会社での私に、案外すぐ戻ることができることだ。もしかして、分裂的なのかもしれないと思うほど、別々の自分を演じ分けることができるような気がする。
家を出て、電車に乗り、会社へ到着したら、まるで昨日も会社に来ていたかのように、会社の私に戻ることができた。もしかすると、そう思っているのは自分だけで、まわりの人から見れば、あやしい感じをかもし出しているかもしれないけど。
この三週間に対する未練はなく、切り替わりました。それよりも、なんだか、元気にリニューアルされて戻ってきましたという感じで、突っ走っていけそうな気さえする。
書類の山をまずは整理し、不在中にお手伝いいただいたものについて反芻し御礼をしていると、あっというまに午前中が過ぎた。午後は、今日中に確認しなければならない残業簿のチェックを、すべりのないよう自分に注意しながら、いつもよりも、もっと注意深くと自分に言い聞かせながら確認した。
自然体で戻っていける。暖かく迎え入れてくれる、まわりの雰囲気によるところが大きいのだろう。